欲望と向き合う#

目を背けたものは消えない。ただ、あなたが一度も入らない部屋でエネルギーを食い続けるだけだ。

数か月間、キッチン家電を買うのが止められなかった時期がある。ホームベーカリー。パスタマシンのアタッチメント。使い方も分からない日本製の包丁セット。届くたびに一瞬だけ興奮して、その後はもっと長い空虚が続く。家電はカウンターに積み上がり、やがてキャビネットへ、そしてガレージの棚へ移動した。それでも買い続けた。

当たり前のことを言い当てたのは娘だった。当時たぶん十二歳。最新の荷物——手回し式の製粉機——を見て、こう言った。「パパ、本当にパンを作りたいの? それとも『パンを作りたい』って思いたいだけ?」

笑った。そしてすぐ笑えなくなった。彼女の言う通りだったから。

あの買い物の山の下に埋もれていた本当に欲しかったものは、仕事とはまったく関係のないことを手で作ること。ゆっくりで、体を使って、満足感のあること。でもそれを声に出して言ったことはなかった——自分自身にさえ。非現実的に思えた。贅沢に思えた。だから本当の欲求に向き合う代わりに、その影をクレジットカードの請求で養い続けた。

たいていの人が、何かしら似たことをしている。夜中のスクロールは、実は別の服を着た孤独だ。残業は、実は家での会話を避ける手段だ。止まらない間食は、実は体が食べ物ではなく休息を求めている。本当の欲求があり、そしてそれを認める代わりにやっていることがある。

代替行為が疲れるのは、決して満たされないからだ。休息への飢えを食べることで満たすことはできない。つながりへの飢えをスクロールで満たすことはできない。創造的な仕事への飢えを道具を買うことで満たすことはできない。本当の欲求はずっとドアをノックし続けていて、あなたはそのたびに間違ったものを手に持ってドアを開けている。

欲望は征服したり制御したりすべきものだとは思わない。薪ストーブの中の火は危険ではない。台所の床の上の火が危険なのだ。違いは火そのものではない——それを十分にはっきり見て、どこに置くべきか分かっているかどうかだ。

欲望と向き合うことの一番難しいところは、向き合うことではない。認めることだ。ある種の望みには、不思議な恥がまとわりつく。注目されたいという望み。周りがみんな忙しそうなのに休みたいという望み。もう分かっているはずの年齢でキャリアを変えたいという望み。これらは恥ずかしいことではないのに、暗闇の中ではそう感じる。まだ光の中に引っ張り出して、まっすぐ見ていないから、そう感じるだけだ。

小さなことを試してみた。ある夜、紙を一枚出して一番上に「私が欲しいもの」と書き、頭に浮かんだことをそのまま書き続けた。予想通りのものもあった。驚くものもあった。何行かは居心地が悪くなった——それはおそらく一番正直な行だということだ。そのリストで何かをしたわけではない。ただ読んだ。何が書いてあるか知っただけで、何かが変わった。名前のない欲求のバックグラウンドノイズが少し静かになった——ずっと唸っていた家電をようやく特定したときに部屋が静かになるように。

欲望は問題ではない。名前のない欲望が問題なのだ。はっきり見える欲望は、判断を下せる欲望だ。追いかけるか、脇に置くか、今の生活に合う小さなバージョンを見つけるか選べる。でも認めることを拒んだ欲望には、形もなく、輪郭もなく、オフスイッチもない。ただ動き続け、存在しないふりをしている部屋から電力を吸い取り続ける。

ずっと欲しかったのに、はっきり口にすることを自分に許していないものがあるかもしれない。他の誰かに言う必要はない。自分自身に言うだけでいい。行動する必要はない。計画を立てる必要もない。ただ名前をつける。書き出すと楽になるなら、書けばいい。しばらくの間、空気に触れさせておく。欲望そのものは、隠し続けることほど怖くはなかったと気づくかもしれない。