新鮮な目を持ち続ける#
世界は退屈にならない。あなたの目が見ることを忘れるだけだ。
あなたの家の通りには木が何本あるだろう? だいたいではなく、正確に。毎日同じ道を歩いたり車で通ったりしていれば、知っていると思うかもしれない。でもある朝、六年間住んでいた街の玄関先に立ってこの問いを自分に投げかけたとき、まったく見当がつかないことに気づいた。通りのだいたいの形は思い浮かぶ。突き当たりのカーブ。角の家の色。でも木は? 風景の中に溶けてしまっていた。長く暮らした壁紙が見えなくなるのと同じように。
その夕方、ルートを歩いて数えた。十四本。通りには十四本の木があって、何年もの間、そのどれひとつとして本当に見ていなかった。
これは注意力の欠陥ではない。脳の機能だ。何かが十分長い間変わらないと、脳はそれを「既知」に分類して、エネルギーを使うのをやめる。実はとても巧みな仕組みだ——新しくて重要かもしれない情報のために注意力を空けてくれる。問題は、安定した生活の中で、週ごとにあまり変化がないと、この分類システムが働きすぎることだ。すべてを「既知」の引き出しに入れ始める。朝のコーヒー。パートナーの顔。窓からの景色。シャワーの熱い湯の感触。ひとつまたひとつと、暮らしの中のささやかな喜びが薄れていく。変わったからではない。目がそれを認識しなくなったからだ。
人がよく手を伸ばす処方箋は、新しさだ。新しいレストラン。新しい街。新しい買い物。効く——一瞬だけ。空腹のときの角砂糖のように。ぱっと甘くなって、すぐ消える。新しさを追いかけることの問題は、自分の暮らしを退屈な部分、どこか別の場所を面白い部分として扱ってしまうことだ。でもどこか別の場所は、いずれ「ここ」になる。そしてまた別のどこかが必要になる。
ほぼ偶然に、違うやり方を見つけた。外国からいとこが遊びに来て、街を案内することにした。千回は歩いた道を、彼女の目を通して見た。彼女は、私が一度も見上げたことのないバルコニーの鉄細工に気づいた。私がいつも通り過ぎるストリートミュージシャンの前で立ち止まった。毎朝通っているのに存在を忘れていたパン屋から漂うパンの匂いに声を上げた。
街は何も変わっていなかった。変わったのはレンズだ。彼女はすべてを初めて見ていて、隣に立つ私も、初めて見始めていた。
それ以来、自分と静かなゲームをしている。週に一、二回、日常の中の慣れた場面をひとつ選び、旅行者としてそれに出会ったふりをする。郵便局への道は、行ったことのない町の散歩になる。夕食を作ることは、誰かが初めて料理するのを見ることになる——熱いフライパンで油がきらめく様子、にんにくが表面に触れたときの音に気づく。リビングに座ることは、見知らぬ人の家に入って、ここにはどんな人が住んでいるんだろうと想像することになる。
ばかげて聞こえる。少しばかげている。でも予想しなかった効果がある。慣れたものが平坦に感じなくなる。細部がまたピントに入ってくる。毎日午後に飲むお茶が、また味のするものになる。何か別のことを考えながら持っている温かいだけの物体ではなくなる。
新鮮さとは、新しいものを見つけることではない。すでにそこにあるものを見る新しい方法を見つけることだ。画家はりんごをひとつ何時間も見つめて、一瞬前には見えなかった影や色を見つけ続けることができる。りんごは変わらない。見方が変わるのだ。
これが大切なのは、マンネリもまたひとつの疲弊だからだ。何も面白く感じない、毎日が次の日にぼんやりと溶けていく——その灰色さには重さがある。劇的ではない。自分から名乗り出ない。ただゆっくりと物事から色を抜き取っていき、最初から色があったことすら忘れさせる。
休暇は要らない。生活を組み替える必要もない。ただ時々、旅行者の目で自分の世界を見ればいい。明日、初めて見るかのように自分の通りを歩いてみてほしい。木を数える。空に気づく。慣れ親しんだものに驚かせてもらう。ずっと、その瞬間を待っていたのだから。