追いかけるのをやめる#

追いかけているものが動き続けるのは、あなたが走っているからだ。

ある夏、穏やかな人間になろうと決めた。静けさについての本を買い、瞑想アプリをダウンロードし、朝の時間を組み替えて十五分間の静座を入れた。心の安らぎについて日記を書いた。午後二時に深呼吸するリマインダーまで設定した。

九月になる頃には、六月よりずっと不安になっていた。

瞑想は悪くなかった。呼吸法も問題なかった。本も良い本だった。問題は僕自身にあった——何もかもに注ぐのと同じ必死のエネルギーで、穏やかさを追いかけていたのだ。内なる平和がプロジェクトになっていた。マイルストーンも締め切りもあった。そしてそのプロジェクトは必然的に失敗した。努力すればするほど、逃げたかったことを証明し続けていたからだ——僕はまだ穏やかじゃない。まだ足りない、と。

ある日曜の朝、全部やめた。大きな決断というより、静かな降参だった。コーヒーを持って裏口の段差に座り、「今ここに在る」ことも「マインドフルでいる」ことも試みなかった。ただそこに座って、名前のわからない鳥が名前のわからない声を出すのを聞いていた。数分間、何かが落ち着いた。穏やかさを見つけたからではなく、探すのをやめたからだった。

野の花の一角#

近所の人が、まったく手入れしない庭の一角で野の花を育てている。水もやらない。草も抜かない。育ち具合も確認しない。三年前の春に種をまいて、そのまま忘れたのだそうだ。毎年、前の年より密に、色とりどりに咲く。秘訣なんてない、と彼女は肩をすくめた。ただ干渉するのをやめただけだ、と。

あの野の花のことをよく考える。僕が欲しいものの多くは、すでに向かってきている。なのに手を伸ばすことが、まさにその道を塞いでいる。蝶は、肩が動かないときにだけ止まる。眠りは、眠ろうとするのをやめた後にやってくる。ぴったりの言葉は、語彙をかき回すのをやめた後に浮かんでくる。

方向と追跡#

方向を持って生きることと、追いかけながら生きることは違う。方向とは、自分がどちらを向いているかを知ること。追跡とは、走ること——常に走ること——自分と同じ速さで動くゴールラインに向かって。方向は歩くことを許す。追跡は全力疾走を要求する。そして追跡の最も残酷なところは、今この瞬間を「不十分だ」と宣告することだ。すべての瞬間が目的のための手段になり、目的は決して到達しない。到達すれば追跡が終わるからだ。追跡がなくなったら、自分は何者なのか。

やがて気づいた。最も欲しかったもの——平和、つながり、「これで十分だ」という感覚——は、高い棚の上に置かれた物ではなかった。部屋の温度のようなものだった。温かさを追いかける人はいない。窓を開けるのをやめればいいだけだ。

種をまく#

何もしないという意味ではない。今も書くし、歩くし、朝はコーヒーを持って座る。ただ、やり方が変わった。近所の人が野の花に対してするように——つまり、何もしない。種をまいて、雨に任せる。

あの不安な夏に感じた疲れは、働きすぎでも寝不足でもなかった。追いかけること自体から来ていた。満足は常にどこか別の場所にある、まだ辿り着いていないどこかにある、と信じ続ける心の、あの絶え間ない前のめりから。

もし探しているものが、前方にないとしたら? 今まさに立っているその場所の足元に、走るのをやめて地面を感じるのを待っているとしたら?