楽しむこと#
喜びは仕事を終えたご褒美ではない。心の炎がちゃんと燃えていることを教えてくれる色だ。
最後に息ができなくなるほど笑ったのは、いつだっただろう。愛想笑いではなく、沈黙を埋めるための笑いでもなく、体全体を乗っ取って、涙を拭きながら「もうやめて、無理」と叫ぶような笑い。すぐに思い出せるなら、あなたの調子は悪くない。考え込まなければならないなら、出てきた記憶が何ヶ月も、あるいは何年も前のものだったら——何かが少しずつ暗くなっている。ただ、気づいていないだけかもしれない。
しばらくの間、純粋に楽しいからやった最後のことが思い出せなかった時期がある。運動はやるべきだからやった。読書は何か役に立つことを学ぶためにやった。料理はみんなが食べなきゃいけないからやった。一週間のすべてに目的があり、理由があり、自分の時間の使い方を審査する見えない委員会に提出できる正当性があった。「楽しみ」はリストの一番下にあった——大事なことが全部終わってから取りかかるもの。でも大事なことは、永遠に終わらなかった。
近所に、退職した小学校の先生がいた。アパートの裏に小さな菜園を作っていた。ある日の午後、トマトの苗に囲まれた折りたたみ椅子に座って、何もしていない彼女を見かけた。本もなく、スマホもなく、草取りもしていない。ただそこに座って、葉っぱを見ていた。何をしているのか聞くと、こう言った。「成長するのを見てるの。もちろん、見てる間は成長しないけどね。でも、そういうふりをするのも悪くないでしょ。」
その言い方の中に、自分がかつて流暢に話せた言語を忘れてしまったような感覚があった。彼女は生産的なことをしていたわけではない。自己啓発をしていたわけでもない。ただ、小さくて何の役にも立たない楽しみを自分に許していただけだった。そしてその穏やかな表情は、何十年もそうしてきて、一度も謝る必要を感じたことがないことを物語っていた。
次の週末、似たようなことを試してみた。菜園ではない——うちにはない。大学時代によく見ていた古いコメディ番組を見つけ出した。何度も見すぎてセリフをほぼ暗唱できるやつだ。土曜日の午後に3話続けて見た。家には誰もいなかった。誰にも必要とされていなかった。約90分間、僕は責任を背負った人間ではなかった。結末を知っているジョークに笑っているだけの人間で、なぜかそれで十分だった。
やがて分かったのは、楽しみは生産性の向こう側で待っている贅沢品ではないということだ。それはシグナルだ。気軽に笑えるとき、小さなばかばかしさに不意を突かれてそれを受け入れられるとき、心の炎は豊かな色で燃えている。笑えないとき、一時間一時間が自分の存在を正当化しなければならないと感じるとき——炎はまだ燃えているが、光は単調になっている。燃えてはいるけれど、一色だけ。その色はたいていグレーだ。
僕が知っている中で最も疲れて見えない人たちは、最も多く休んでいる人たちではない。小さなことに面白がれる人たちだ。レインコートを着た犬。靴の形をした雲。笑えるはずがないのに、なぜか笑えるひどいダジャレ。彼らは努力してそういう瞬間を勝ち取ったのではない。ただ、ドアを閉めなかっただけだ。
今日、もしチャンスがあれば、何の目的もないことを一つやってみてほしい。くだらないものを見る。かろうじてジョークと呼べる程度のことを誰かに言う。窓を開けたキッチンで踊る。リラックスが必要だからではない。明日の生産性が上がるからでもない。ただ、あなたの中の炎には、これまで見せてきたよりもっと多くの色があるから——そしてその色のいくつかは、すべての時間にその存在価値を証明させるのをやめたときにだけ、現れるものだから。