ビジョン#

ビジョンとは目的地ではない。暗闇の中でも感じ取れる方向のことだ。

何年も前のある夜、知らない街で道に迷った。スマホは電池切れ。通りの標識は読めない言語で書かれていた。雨が降っていた——大したことなさそうに見えて、気づいたらコートがびしょ濡れになっているような細かい雨。角のひさしの下に立って、どちらに歩けばいいか見当もつかない人間だけが味わう無力感を感じていた。

そのとき、川に気づいた。見えはしなかったが、聞こえた——交通の音と雨の下に、低く安定した音。川がどこに通じているかは分からなかった。でも、どこかには通じている。どこかは、立ち止まっているよりましだった。音を頼りに二十分歩いた。一ブロック、また一ブロック。やがて通りが開けて、見覚えのある橋に出た。そこから帰り道が分かった。

あの夜のことをその後何度も考えた。方向について、地図からは決して学べなかったことを教えてくれたからだ。地図は正確にどこへ行くべきか教えてくれる。川の音は、だいたいどちらかを教えてくれる。そして「だいたいどちら」で、たいていは十分なのだ。

長い間、人生にビジョンを持つとは詳細な計画を持つことだと思っていた。五年計画、マイルストーンのリスト、家、仕事、人間関係、銀行残高の明確なイメージ。そういう計画を持っている人たちは、羨ましいほどの自信を持って人生を歩いているように見えた。でも何年も見ていて気づいたのは、計画が現実の生活に触れて無事だったことはほとんどないということだった。本当に自信のある人は、最高の地図を持っている人ではなかった。地図がなくても、どの方向が自分のものか分かっている人だった。

ビジョンは設計図というより、コンパスの方位に近い。地形がどうなっているかは教えてくれない。いつまでに着くとも約束しない。教えてくれるのは一つだけ——分かれ道に立ったとき、どちらに傾くか。そのたった一つの情報が、何年もかけた何百もの小さな決断の中で繰り返されることで、どんなマスタープランにも劣らず確実に人生を形作る——むしろそれ以上かもしれない。あなたが変わるとき、一緒にしなるから。

知り合いの庭師は、花壇の図面を描いたことがなかった。感覚で植えていた。植物が行きたそうな場所に置き、居心地が悪そうなら移し、庭が自分で何になりつつあるか教えてくれるのに任せていた。彼女の庭は、私が見た中で最も美しいものの一つだった——計画がなかったにもかかわらずではなく、なかったからこそ。彼女は計画より良いものを持っていた。庭が何になろうとしているかという感覚だ。メロディを口ずさめるようになる前にそれを感じるように——まだ完全な形ではないけれど、そこにあって、次の正しい音へと引っ張ってくれる。

今の私が抱いているビジョンは一枚の絵ではない。自分に問い続けている問いに近い。「誰も見ていないとき、どんな人間でいたいか?」何を持ちたいかではない。どこに住みたいかでもない。誰でありたいか。答えは自分が変わるにつれて変わる——ある部分ではより具体的に、別の部分ではよりオープンに。川がある区間では水路を深く刻み、別の区間では広がるように。でもいつも同じ大まかな方向に流れている。

もしビジョンが固まるまで動き出せずにいるなら、順序が逆かもしれないと考えてみてほしい。ビジョンは白紙に座って設計するものではない。歩いているうちに姿を現すものだ。雨の夜の川の音だ。見える必要はない。水がどちらに流れているか聞こえるくらい静かであればいい——そして、その方向に一歩踏み出す。次の一歩はもっとはっきりする。いつもそうだ。