挨拶#

一番簡単な言葉が、一番大切な火を消さずにいてくれる。

かつて親しかった人を思い浮かべてほしい。喧嘩した人や、意図的に離れた人ではない。風のない日に桟橋からゆっくり離れていく船のように、静かにあなたの人生から滑り出ていった人。争いもなく、決裂もなく。ただ挨拶をしなくなっただけで、ある朝、二人とも見ていないうちにロープがほどけていたと気づいた。

私もそうやって友人を一人失った。同じ街に住み、同じ店で食べ、重なり合う日常のリズムを共有しているときの親しさだった。それから私が引っ越した。遠くではない——川の向こう、電車で二十分くらい。連絡を取り合おうと言った。春になったらまた走り始めると言うときくらいの本気度で。

しばらくはメッセージのやり取りがあった。短いもの。「新しいところどう?」「いいよ。そっちは?」それから間隔が伸びた。一週間が二週間になった。二週間が一ヶ月になった。一ヶ月が、自分自身の引力を持つような沈黙になった——長引くほど破りにくくなる。やがて連絡を取ること自体に説明が必要に感じられた——こんなに間が空いて電話するなら理由がないと——そして理由がなかったから、電話しなかった。彼もしなかった。私たちの間の火は踏み消されたのではない。ただ酸素が切れたのだ。

当時わからなかったのは、メッセージそのものは内容についてではなかったということだ。「新しいところどう?」にはほとんど情報がない。一言で答えられるし、夕飯までにはお互い忘れている。でもメッセージの意味は答えにあったのではない。聞いたという事実にあった。二人の間の空間に吹き込まれた小さな一息。もう一日だけ、燠火を光らせておくのにちょうど足りる分。

挨拶には意味がなければならないと思い込んでいる自分に気づくたびに、今はこのことを考える。何か本当に伝えることができるまで待つべきだ、相手の時間に値するものが必要だと。でも挨拶は手紙ではない。会話でもない。植物に水をやることに近い。大事なことを伝えたいから植物に水をやるのではない。そうしないと枯れるからやるのだ。

母はこのことを言葉にせずに理解していた。毎朝、姉に電話していた。通話は九十秒ほど。「よく眠れた?」「うん、あなたは?」「猫がまた花瓶を倒した。」「あの猫。」それだけ。わずかなバリエーションを伴う同じやり取りが、三十年以上続いた。昔は時間の無駄だと思っていた。今は、あれが私が目にした中で最も効率的な関係維持だったとわかる。二人の女性が、毎日一息分の空気だけで、火を燃やし続けていた。

人生にとどまる人は、最も深い会話をした人であることはめったにない。挨拶を続けた人だ。廊下での「おはよう」。グループチャットでの「やあ」。駐車場の向こうからのうなずき——何も言っていない、ただ「あなたが見えている、あなたはまだここにいる」と伝えているだけ。この小さな、繰り返される接触は、人とのつながりの灌漑水路だ——劇的な大雨ではなく、乾季に根を生かし続ける、穏やかで控えめな流れ。

連絡しようと思っていた人がいるなら——何か問題があって離れたのではなく、酸素の供給が途絶えただけの人——長いメッセージを書く必要はない。沈黙を説明する必要もない。短い一言で十分だ。「やあ、元気にしてた?」一息。燠火をもう一度灯すには、それだけで足りるかもしれない。