有毒な幸福#

彼女はどのパーティーでも一番面白い人だった。みんなを笑わせ、気まずい沈黙をコメディに変え、部屋に入った瞬間に場を明るくする人。友人たちは彼女を「いつもハッピー」「機嫌が悪いことがない」「知っている中で一番ポジティブな人」と呼んだ。

彼女は4年間、泣いていなかった。

祖母の葬儀でも。恋人と別れたときも。パンデミックの最も孤独な日々でも。すべてを笑い飛ばし——周囲はその「強さ」に感嘆していた。

彼女が私のところに来たのは、眠れないからだった。普通の不眠症ではない——寝つきは問題ない。しかし午前3時に、名前のつけられない恐怖感とともにはっと目が覚める。胸の上に何かが重くのしかかっていて、それが何なのかわからないし、振り払えない。スマホを手に取り、何か面白いものを見ると、その感覚は引っ込む。翌晩まで。

「わからない」と彼女は言った。「私はハッピーな人間なのに。なのにどうして何かに食い尽くされているような気がするの?」


なぜなら、実際にそうだからだ。そして彼女を食い尽くしているのは、幸福そのもの——というより、彼女がずっと演じてきたバージョンの幸福だ。

本当に生きていることから生まれる喜びがある。人間の体験の全範囲を自分の中に通すことで生まれる喜びだ。その喜びには深さがあり、質感があり、しなやかさがある。悲しみのそばにいても怯まない。痛みから逃げない。泣いて、笑って、怒って、愛して、失って、それでも歩き続けた人の喜びだ。

そしてもう一つの種類がある。人生の表現ではなく、人生に対する防御として機能する喜び。「笑っている限り、下に何があるか感じなくていい」と言う喜びだ。

その二つ目を、私は有毒な幸福と呼んでいる。そしてそれは、いたるところにある。


有毒な幸福は、わかりやすい意味での偽物ではない。その人は感じてもいない笑顔を貼り付けているわけではない。幸福に似た何かを本当に体験している。しかしそれは麻酔としての幸福だ。壁としての幸福だ。一つのチャンネルの音量をあまりにも大きくしたために、他のすべてのチャンネルが聞こえなくなった幸福だ。

それはどうやって根を張るのか。

ある時点で——たいてい幼少期に——特定の感情は歓迎されないと学んだ。悲しみに対する許容度がゼロの家庭だったかもしれない。「泣くな。泣くようなことは何もない」。怒りが危険だったかもしれない。親の怒りを誘発したり、きょうだいが距離を置いたりした。恐怖は恥ずかしいことだったかもしれない。「弱虫になるな」。

だから適応した。常に安全で、常に報われ、常に歓迎される唯一の感情チャンネルを見つけた。明るさだ。明るくしていると、人に好かれた。人を笑わせると、注目を集めた。前向きでいると、居心地の悪い質問をされなかった。

やがて、その適応は永久設定に固まった。あなたは「明るい人」になった——四六時中そう感じているからではなく、他のあり方を忘れてしまったからだ。他の感情は消えたわけではない。ただ、どんどん厚くなるパフォーマンスの層の下に埋もれただけだ。


この戦略のコストは、最初は見えない。あなたは大丈夫に見える。大丈夫どころか——素晴らしく見える。誰もがディナーパーティーに呼びたがる人だ。

しかし演技の下で、何かが静かに死んでいる。本物の感情体験をする能力だ。

悲しみを明るさで上書きしても、悲しみは消えない。ただそこにアクセスできなくなるだけだ。そして悲しみと一緒に、悲しみが可能にしていたものも失う。悲悼(失ったものに敬意を表す方法)、深さ(苦しんでいる他者とつながる方法)、そして解放(痛みがサイクルを完了して去っていく方法)。

恐怖をユーモアで笑い飛ばしても、恐怖は消えない。恐怖が運んでいた情報——自分の境界線、弱点、本当のニーズについての情報——を失う。最悪の意味で恐れ知らずになる。勇敢なのではなく、安全を守るシグナルから切り離されているのだ。

そして最も残酷な皮肉がある。本物のネガティブな感情を演じたポジティブな感情で覆い隠すと、ポジティブな感情そのものが浅くなる。システムは選択的に減衰させることができない。低音を消せば、高音の豊かさも失われる。笑い声は大きくなるが、意味は薄れる。熱意は大きくなるが、中身は空っぽになる。喜びのボリュームをどんどん上げているのに、感じるものはどんどん少なくなる。


見分けるポイント——有毒な幸福と本物の幸福を区別するもの——は、すべてが静かになったときに何が起こるかだ。

本当に幸せな人は、一人で静かな部屋に座って、何の気晴らしもなく、大丈夫だと感じることができる。恍惚ではないかもしれない。少し退屈かもしれない。しかし根本的に穏やかだ。

有毒な幸福で動いている人にはそれができない。静けさは恐ろしい。なぜなら静けさは、埋めてきたものが表面に浮かび上がってくる場所だから。ずっと逃げてきた悲しみ。処理しなかった悲嘆。予定で覆い隠した孤独。すべてが静まった瞬間、カバーが吹き飛ぶ。

だから有毒な幸福で動いている人は、スケジュールを詰め込み、スマホを常に手元に置き、途切れない社交生活を送る。忙しいのが好きだからではない。静止が怖いからだ。静止は、何年もミュートしようとしてきたチャンネルの音が聞こえることを意味する。


直感に反するように聞こえるかもしれないが、こういうことだ。本物の幸福への道は、あなたが避けてきた感情のまっただ中を通っている。

回り道ではない。乗り越えるのでもない。突き抜けるのだ。

4年間泣かなかった彼女の転機は、感謝日記でもポジティブなアファメーションでもなかった。ある日、私のオフィスに座って——何年ぶりかに——悲しみを感じることを自分に許した。すぐにジョークに変換せずに。

醜かった。めちゃくちゃだった。話せなくなるほど泣いた。何年も抱えてきたことを口にした。「おばあちゃんが恋しい」「彼が去ったことが許せない」「寂しいのに、助けを求める方法がわからない」

それが終わったとき——波が頂点に達して引いていったとき——彼女は顔を上げて、私が一生忘れない言葉を言った。「何年ぶりかで一番軽い気がする」

彼女は何かを得たのではない。何かを手放したのだ。感じてこなかった感情の重さが、ようやく下ろされた。ポジティブさによってではない。正直さによって。


考えてみてほしい。

あなたは、みんなが明るくいることを期待している人だろうか?いつも大丈夫で、いつも笑っていて、いつも明るい面を見ている人だろうか?

もしそうなら、自分に問いかけてほしい。最後に誰かに、もがいている姿を見せたのはいつだろう?

演出されたもがきではなく——SNSの磨かれた脆弱さの投稿ではなく。本物の、乱雑な、台本のないもがき。気の利いた一言が用意されていない類のもがき。

思い出せないなら、あなたの幸福は本物ではないかもしれない。非常に精巧な防御システム——あまりにも長く守ってきたために、何から守っているのか忘れてしまった防御システム——かもしれない。

一度に全部壊す必要はない。でも一度だけ、何かを感じたとき、すぐにもっと心地よいものに変換せずに、そのまま感じてみてほしい。

悲しんでみる。たった5分間。直そうとせずに。 怒ってみる。冗談にせずに。 怖がってみる。平気なふりをせずに。

他のチャンネルを鳴らしたとき——たとえ短くても、たとえ小さくても——何が起こるか見てみてほしい。

パフォーマンスの下に、もっと豊かで、もっと深くて、もっと本物の幸福が待っているかもしれない。大きな声を出す必要のない幸福。本物だから。

涙と共存できる幸福。

それは弱さではない。人間の交響曲が、ようやくすべての音符を奏でているということだ。